竹田因緣(中日文對照)出版日期:2016年
裝訂:平裝 |
漢字學堂出版日期:2016/07/25
ISBN:9789571185729 裝訂:平裝 |
日出日落出版社:讀冊
出版日期:2011年07月11日 語言:繁體中文 ISBN:9789868608337 裝訂:平裝 |
愛情書出版社:大塊文化
出版日期:2005年02月02日 ISBN:9867291182 裝訂:平裝 |
荷年荷月出版社:木馬文化
出版日期:2003年09月01日 語言:繁體中文 ISBN:986789779X 裝訂:平裝 |
非草草了事-陳世憲書法新意象出版社:木馬文化
出版日期:2002年07月30日 語言:繁體中文 ISBN:9867897226 裝訂:平裝 |
《日出日落》日文版介紹
『愛情書』(2005年大塊出版社)を出版してから、すでに五年間が経ちました。この度の出版につきまして、『日出日没』は七年前に脱稿したにもかかわらず、本の中には省みるべきところが多々あり、時々修正を行いました。そしてようやく今日の定稿に至ります。プロの書道家として完成をここまで遅らせたことは、怠惰そのものだと言われても仕方ありません。
東海大学の中国語文学系から卒業し、兵役を終えてから、「この現代の中で書道はどのような意義を持ち、何を体現すべきなのか?」と考え、これから二十年間をかけて己を鍛え抜いてみて、その答えを自ら探してみようと志を決めました。あれから数えてもう19年が過ぎました。当年何も分からない十九歳のとき自分の一生涯の願いを書道で書いた事を想起しました。それは古典書道、歴史上の拓本、篆隸草行楷、更には甲骨文字、陶文まで、漢字の発展史のもっとも早い時期の「字」を全てこの手で書き、それらの字を学んでみたいというものです。
現在の書道界は、書の良し悪しを評価する基準は、古典書道の書に似ているか、つまり昔の人が書いた書のように書けているか、というもので、そのように書けている作品は「書道の基礎がしっかりしている!」と評価されます。
私はその後、一人部屋に篭り思索にふける日々の中で、書道の創作と古典書道は必ずしも絶対的な関係ではないことを発見しました。漢字文字の発展史に沿ってそれを手本としてその書を真似て己の書の技術を磨く事が必ずしも所謂「書道の基礎がしっかりしている」ことに繫がるわけではない事に気付いたのです。
しかしながら今思えば、大学時代は1日平均1日5~6時間、とりつかれたように書道にどっぶりと漬かった日々を送っていました。当時、同級生は私を見て「お前は毎日一日中書道をしているなあ」と言っていました。兵役の期間も書道を続けました。運よく一人部屋を与えられたので、兵役中の不自由な生活の中でも機会を見つけては書を書き、これまで書いてきた古今の書をもう一度全て習字しました。兵役中の極限生活の中でも、一人篭って書道を楽しめるなんて、今思い出しても思わずにやけてしまいます。
兵役を退役し、父の所有する家に戻ることを決めました。そこでの暮らしは毎朝早起きし、世界各国の名著や文学を読みふける毎日を過ごしました。真夏の暑い正午には唯一冷房がある部屋に閉じこもり世界各国の映画のビデオを見た。ロシアのドフトエフスキーの映画とか、日本の黒沢明、小津安二郎、市川崑の映画とか、イランのアッバスの映画とか、ヨーロッパのロメール、トリュトリュフォーなどの映画を真夏の頭がクラクラするような午後に、あまり冷房が効かないその部屋ですべて見ました。
そして考えました、この映画作品のように、書道作品も漢字文化圏以外でもボーダレスに観賞対象として受け入れられないのだろうか?と。確かに抽象表現主義の芸術として対象することは可能かもしれないが、それよりも根本的な問題として、西洋的美術体系の概念の中では、書道作品を正当に評価し、それを観賞して楽しむということは非常に困難であるようです。そんな状況で私は、その作品そのものの表現がストーリーを想起させ、まるで映画の一作品を見ているかのように観賞できるような書道の作品ができないかどうか、それをずっと必死で考えてきました。
毎日夕方散歩に出かけ、出会った農民と世間話をし、蓮の花の咲く田園風景の樹木の下でじっくりと考えました。考えることは、どれも最上級の理想ばかり。考えに考えて、そして墨を刷り、筆を取って一枚そしてまた一枚と書き始め、最後の一枚を書き上げることができた時の達成感は今でも覚えています。なぜならそれは全部で5、60枚の作品になる構想だったからです。あるときは筆が進まず、とても苦しかったこともあります。まるで長編小説や映画を製作しているような、そんな苦しみでしょうか。
すべて作品が仕上がったとき、私は嬉しくて思わず小躍りをしてしまったほどでした。それは一枚の作品を書き上げたときのものと比べて比にならない達成感であり、古典書道の臨書よりも全然面白く、しかも現実社会との対話をするような形式になっており、創造性を発揮出来たという満足感もありました。墨色が描く線と半紙の空白が表現したリアルな日常生活が伝わることを願ってやみません。
硯の上ですられる墨の一滴一滴に、描かれる線の一本一本に、日常生活の中での様々な感情を表してみるという試みをしました。どのくらい筆を早く走らせれば追憶を表せるか?どのくらい遅く筆を走らせれば遅れてきた愛情を表せるか?あるいはどの位の墨の量で狂喜を表現することができるか?どのくらいの掠れた線が孤独の寂しさを表現できるか?一心不乱に試行錯誤を重ねました。
外に仕事をしに行くわけでもなく、如何にそれぞれをどのような線で表現すればいいか、その期間はそれだけに専念していました。すでにイメージが出来上がっていた時はゆるぎなく筆も進むのですが、逆にイメージが不完全だと途中で自分でも何を書いているのかわからなくなってしまいます。傍で見ている人にはわからないでしょうが、書道家にとってこういうイメージが固まらないとときは本当に辛く苦しいものなのです。
自分は平凡な家庭出身であり、貴族や皇帝の身分ではないのだから、古代の貴族などの書をどんなに練習してどんなに真似てめても、自分の書がそれに近づくことは出来ないのではないかと思うようになりました。そこで自分の身の丈にあった、自分の身の回りの人や物、事を書に表現することを始めました。すると以前よりも自分のイメージしたものや想いを上手く作品に反映させることができるようになりました。
私はタクシーを呼んで車に乗り込むとすぐにタクシー運転手と話し始め、仮に目的地を過ぎていたとしても運転手の話が終わるまで聞きそれから運転手に行き先を告げるようなことをよくします。確かに少し多くお金を払うことになりますが、そうやってこそタクシー運転手の本当の生活がわかるのではないかと考えてそうしています。
この物語のモデルは、苦労して育ったドライブ大好きの一人の女学生と、臨終前に継父が買った車を持つ一人の大学生の話です。そして開墾移民としてドミニカ共和国に渡った維真と維均、そしてその岳父のストーリーを基にこの物語を仕上げています。
私達書道家は、書を形式と本質の部分で分類し、例えば楷書、隸書、行書、草書などと分けます。更にこれらの字を更に形態などにより細かく分類し、唐時代の楷書体でしたら、歐陽詢体、虞世南体、褚遂良体、顏真卿体、柳公権体などと分けます。唐時代の楷書体だけでもこれだけの種類があります。その他の時代の楷書体も含めますと、楷書体だけでもまだまだ非常に多くの種類が存在します。各時代の全ての書道を習いたいという人がいたら、もしかしたらひとつの人生だけでは足りないかもしれません。
しかしやはり書道をする者はこれを究めてみたくなるものでもあり、そのような状態を「書道形式の泥沼にはまった」と言っています。