竹田因緣日文版_
序:民間における文化大使-高雄市長 陳菊
世憲氏は白河に生まれ、ご父君が不要として廃棄された豚小屋の中で簡素な暮らしを送っていました。書道を人生最大の目標に据えて日夜勤勉に腕を磨き、見事著名な書道家になりました。
私は暇な時よく氏の元を訪ね、お茶を飲み気ままにおしゃべりをしながら、至ってシンプルかつ自由闊達に人生に向かい合っている人物の心の中を覗いてみようとしたものです。
また、氏は台湾の歴史や文化に極めて造詣が深いため、作品にも様々な地域の文化や社会の情緒が色濃く反映されています。十年ほど前から氏は高雄に居を移し、高雄の歴史文化に深く関心を寄せ始め、高雄と関わりのある作品を数多く創作しています。
一番印象に残っている出来事は、大分県竹田市市政訪問団のご一行が高雄市まで私を訪ねに来て下さったことです。竹田市の最も有名な歌「荒城の月」は私も子供の頃から今に至るまで繰り返し聴いて参りました。台湾の音楽家、呉晋淮先生がこの歌の詞を台湾語に翻訳されている事から、台湾でもカラオケボックスで歌えるほどに親しまれております。曲調は簡潔にして力があり、歌い出すと感情が一杯に溢れてきます。
私は過去に二度竹田市を訪れたことがございます。この優雅な山の町にいたく感動を覚えました。竹田は豊かな自然に囲まれ、厚い文化が息づく小さな町です。そして今、世憲氏は十六度目となる竹田市への旅を控え、更には竹田市のために一冊の本を書こうとしています!
私はこの事に大変驚き、敬服させられました。一つの町に何度となく行ったから、その町のために一冊の本を書く。この点からも世憲氏が竹田市と育んできた感情がいかに深いものであるかがうかがえます。容易にできる事ではありません。少なからぬ時間と労力を費やしたが故に成し遂げられたものと信じます。
今年十一月に世憲氏は竹田創生館で個展を開催なさいます。この場を借りてお祝いを申し上げるとともに、日本の友人の皆様のご支援に感謝を申し上げます。皆様のご支援のおかげで世憲氏の展覧会は一層充実したものになるでしょう。高雄市は竹田市の皆様のご来訪を、いつでも心より歓迎いたします。
私は暇な時よく氏の元を訪ね、お茶を飲み気ままにおしゃべりをしながら、至ってシンプルかつ自由闊達に人生に向かい合っている人物の心の中を覗いてみようとしたものです。
また、氏は台湾の歴史や文化に極めて造詣が深いため、作品にも様々な地域の文化や社会の情緒が色濃く反映されています。十年ほど前から氏は高雄に居を移し、高雄の歴史文化に深く関心を寄せ始め、高雄と関わりのある作品を数多く創作しています。
一番印象に残っている出来事は、大分県竹田市市政訪問団のご一行が高雄市まで私を訪ねに来て下さったことです。竹田市の最も有名な歌「荒城の月」は私も子供の頃から今に至るまで繰り返し聴いて参りました。台湾の音楽家、呉晋淮先生がこの歌の詞を台湾語に翻訳されている事から、台湾でもカラオケボックスで歌えるほどに親しまれております。曲調は簡潔にして力があり、歌い出すと感情が一杯に溢れてきます。
私は過去に二度竹田市を訪れたことがございます。この優雅な山の町にいたく感動を覚えました。竹田は豊かな自然に囲まれ、厚い文化が息づく小さな町です。そして今、世憲氏は十六度目となる竹田市への旅を控え、更には竹田市のために一冊の本を書こうとしています!
私はこの事に大変驚き、敬服させられました。一つの町に何度となく行ったから、その町のために一冊の本を書く。この点からも世憲氏が竹田市と育んできた感情がいかに深いものであるかがうかがえます。容易にできる事ではありません。少なからぬ時間と労力を費やしたが故に成し遂げられたものと信じます。
今年十一月に世憲氏は竹田創生館で個展を開催なさいます。この場を借りてお祝いを申し上げるとともに、日本の友人の皆様のご支援に感謝を申し上げます。皆様のご支援のおかげで世憲氏の展覧会は一層充実したものになるでしょう。高雄市は竹田市の皆様のご来訪を、いつでも心より歓迎いたします。
序:陳先生に捧げる「有由有縁」-大分県竹田市長 首藤 勝次
わが竹田市は、2005年4月に旧竹田市、旧荻町、旧久住町、旧直入町が合併して、今の新しい竹田市が誕生いたしました。城下町を核とする旧竹田市と、そして周辺はまさに九州の最高峰、くじゅう連山、その周辺部の農村地域、久住高原そして日本一の炭酸泉の長湯温泉という非常に個性豊かでポテンシャルの高い魅力的なまちです。
まずは、このたび台湾の畏友、陳世憲先生がわが竹田市との交流とその意義、さらには今後の展開に寄せる期待を刻まれたことに対し、心から敬意を表し、また竹田市民を代表して感謝申し上げる次第であります。
竹田市と台湾・高雄市。さらには陳先生と今は亡き阿南福登先生ら竹田市民との交流の素晴らしさは、まさに地方に求められる国際化のモデルケースとなり得るものであります。特に、私が推進する「文化行政」を基軸にした国際化は、岡城はもちろん荒城の月の作曲で知られる夭逝の天才音楽家・瀧廉太郎先生をはじめ、南画(水墨画)の大家として有名な田能村竹田先生ら先覚者を生み出した歴史的環境の魅力が宿るまちとして、時空を越えて愛される力、竹田市ならではの力があります。
しかし、歴史文化というのは「立ち止まったらただの過去」、いまにどう活かされるかが大切です。その意味においても、陳先生が道を切り開いていただいた台湾・高雄市と竹田市とのご縁は、未来に大きな足跡を残してくれるものであります。
いま、私の胸を熱くしてくれる言葉があります。それが、「有由有縁」であります。竹田市を愛してくれたノーベル賞作家・川端康成先生がよく揮毫された言葉です。その意味は、「人と人、そして人とものごとの出会いに偶然であることはない。すべて、理由があって結ばれているから、その縁を大切にしなさい」というものであります。まさに、陳先生と私たちにはそんな導きがあったと確信しております。この貴重な歴史が、陳先生から紹介されることによって両市の市民はもちろん、世界の人々から称賛されますことを心から念じております。
最後に、高雄市の市長さんはじめ、多くの皆さんとの出会いを期待申し上げるとともに、陳先生と阿南福登先生の友情にあらためて敬意を表してお祝いの言葉といたします。
まずは、このたび台湾の畏友、陳世憲先生がわが竹田市との交流とその意義、さらには今後の展開に寄せる期待を刻まれたことに対し、心から敬意を表し、また竹田市民を代表して感謝申し上げる次第であります。
竹田市と台湾・高雄市。さらには陳先生と今は亡き阿南福登先生ら竹田市民との交流の素晴らしさは、まさに地方に求められる国際化のモデルケースとなり得るものであります。特に、私が推進する「文化行政」を基軸にした国際化は、岡城はもちろん荒城の月の作曲で知られる夭逝の天才音楽家・瀧廉太郎先生をはじめ、南画(水墨画)の大家として有名な田能村竹田先生ら先覚者を生み出した歴史的環境の魅力が宿るまちとして、時空を越えて愛される力、竹田市ならではの力があります。
しかし、歴史文化というのは「立ち止まったらただの過去」、いまにどう活かされるかが大切です。その意味においても、陳先生が道を切り開いていただいた台湾・高雄市と竹田市とのご縁は、未来に大きな足跡を残してくれるものであります。
いま、私の胸を熱くしてくれる言葉があります。それが、「有由有縁」であります。竹田市を愛してくれたノーベル賞作家・川端康成先生がよく揮毫された言葉です。その意味は、「人と人、そして人とものごとの出会いに偶然であることはない。すべて、理由があって結ばれているから、その縁を大切にしなさい」というものであります。まさに、陳先生と私たちにはそんな導きがあったと確信しております。この貴重な歴史が、陳先生から紹介されることによって両市の市民はもちろん、世界の人々から称賛されますことを心から念じております。
最後に、高雄市の市長さんはじめ、多くの皆さんとの出会いを期待申し上げるとともに、陳先生と阿南福登先生の友情にあらためて敬意を表してお祝いの言葉といたします。
序:「竹田因縁」出版を祝う-元竹田市議会議長 古井久和
陳世憲先生の竹田や竹田の人々に対する強い想いが込められた、この度の出版を心からお祝い申し上げますと共に、出版を契機に更に台湾との交流が深まることを期待しています。
台湾と日本、高雄市と竹田市の人々の交流の輪がこれ程までに拡がることを誰が想像できたでしょうか。台北市の何先生の来日を契機に、その時のお話を聞かれた陳先生が二度目の来日で竹田を訪れ、阿南福登・禮子ご夫妻との出会いにより、今日の状況まで発展したとお聞きしています。本当に感謝でいっぱいです。
先生との最初の出会いは福登先生のご自宅でした。「竹田市議会議長の古井さんです」とご紹介いただき、緊張の中でお酒を酌み交わし何度も「乾杯」をしたことを覚えています。気さくで笑顔を絶やさないお人柄は、世界的著名な書家を感じさせず、それでいて人間性の豊かさを感じていました。
2008年7月に竹田市として初めて高雄市を公式訪問し、4年後には竹田市レクリエーション協会創立30周年記念事業として仲間27名と再び訪れました。訪湾の折には、陳先生、何先生に大変お世話になりました。
東京美術館や福岡など、日本での活動にも力を入れられ、今秋には竹田市で2度目の展覧会が開催されることを、本当にうれしく思います。
陳世憲先生とのこれまでの交流に感謝し、益々のご活躍を心からお祈りしてお祝いのメッセージとします。
台湾と日本、高雄市と竹田市の人々の交流の輪がこれ程までに拡がることを誰が想像できたでしょうか。台北市の何先生の来日を契機に、その時のお話を聞かれた陳先生が二度目の来日で竹田を訪れ、阿南福登・禮子ご夫妻との出会いにより、今日の状況まで発展したとお聞きしています。本当に感謝でいっぱいです。
先生との最初の出会いは福登先生のご自宅でした。「竹田市議会議長の古井さんです」とご紹介いただき、緊張の中でお酒を酌み交わし何度も「乾杯」をしたことを覚えています。気さくで笑顔を絶やさないお人柄は、世界的著名な書家を感じさせず、それでいて人間性の豊かさを感じていました。
2008年7月に竹田市として初めて高雄市を公式訪問し、4年後には竹田市レクリエーション協会創立30周年記念事業として仲間27名と再び訪れました。訪湾の折には、陳先生、何先生に大変お世話になりました。
東京美術館や福岡など、日本での活動にも力を入れられ、今秋には竹田市で2度目の展覧会が開催されることを、本当にうれしく思います。
陳世憲先生とのこれまでの交流に感謝し、益々のご活躍を心からお祈りしてお祝いのメッセージとします。
序:陳 先生の上梓によせて-フレンドシップフォース 大分 会長 大塚 邦彦
陳先生 書籍の刊行 おめでとうございます。
書道家「陳 世憲」氏との出会いは、2000年11月フレンドシップフォース台北クラブの民間大使として来竹された時でした。
フレンドシップフォース(以下FFと略記)の活動は、渡航と受入の二つの活動があります。1週間のホームステイを通し、民間大使とホスト家庭が交流することにより、宗教や政治の枠を越え、お互いの文化や国民性を理解し、絆を深めることを目的にしています。
この交換は、お互いに一回の交流で終わるのでなく手紙やメール等でつながりを保っていこうというものです。しかし、その絆も年月を経る毎に希薄になりがちですが、陳先生は岡城や竹田の野山、何よりも竹田人をこよなく愛し、16回も訪問を重ねられ、故阿南福登氏(元FF大分会長)はじめ、竹田のFF会員との交流親睦を深められています。そんな16回の来竹の中には,芸術家仲間やお弟子さん等、いろいろな分野の方々もお連れ下さいました。弟子でもある台湾の子どもたちと南部小学校の児童との交流では、書や音楽を媒介に言葉を越えた楽しい交流が生まれ、こういうことが次代につながるものと確信しています。
陳先生は集中力・直観力に富み、卓越した創造力をもって全身全霊で表現される書のパフォーマンスには,一瞬にその場を荘厳な雰囲気に一変させ,目のあたりにしている私たちを魅了し、ただただ固唾をのんで見守るしか出来ませんでした。その作品は、従来の型にはまったものでなく、陳先生そのものとして表現されているように感じます。
昨年(2015年)竹田創生館で作品展示会を開催しましたが、多くの市民が来館し、見事なパフォーマンスに圧倒され、素晴らしい作品に感動を覚えたものです。
今回の出版を通して、わが郷土竹田のことが台湾の方々に喧伝され、竹田に多くの台湾の方がお見えになり、今以上にお互いの国に「家族」が増えることを望みます。
書道家「陳 世憲」氏とのご厚誼を衷心より感謝し、今後ますますのご活躍を祈念申し上げまして、発刊のお祝いと致します。
書道家「陳 世憲」氏との出会いは、2000年11月フレンドシップフォース台北クラブの民間大使として来竹された時でした。
フレンドシップフォース(以下FFと略記)の活動は、渡航と受入の二つの活動があります。1週間のホームステイを通し、民間大使とホスト家庭が交流することにより、宗教や政治の枠を越え、お互いの文化や国民性を理解し、絆を深めることを目的にしています。
この交換は、お互いに一回の交流で終わるのでなく手紙やメール等でつながりを保っていこうというものです。しかし、その絆も年月を経る毎に希薄になりがちですが、陳先生は岡城や竹田の野山、何よりも竹田人をこよなく愛し、16回も訪問を重ねられ、故阿南福登氏(元FF大分会長)はじめ、竹田のFF会員との交流親睦を深められています。そんな16回の来竹の中には,芸術家仲間やお弟子さん等、いろいろな分野の方々もお連れ下さいました。弟子でもある台湾の子どもたちと南部小学校の児童との交流では、書や音楽を媒介に言葉を越えた楽しい交流が生まれ、こういうことが次代につながるものと確信しています。
陳先生は集中力・直観力に富み、卓越した創造力をもって全身全霊で表現される書のパフォーマンスには,一瞬にその場を荘厳な雰囲気に一変させ,目のあたりにしている私たちを魅了し、ただただ固唾をのんで見守るしか出来ませんでした。その作品は、従来の型にはまったものでなく、陳先生そのものとして表現されているように感じます。
昨年(2015年)竹田創生館で作品展示会を開催しましたが、多くの市民が来館し、見事なパフォーマンスに圧倒され、素晴らしい作品に感動を覚えたものです。
今回の出版を通して、わが郷土竹田のことが台湾の方々に喧伝され、竹田に多くの台湾の方がお見えになり、今以上にお互いの国に「家族」が増えることを望みます。
書道家「陳 世憲」氏とのご厚誼を衷心より感謝し、今後ますますのご活躍を祈念申し上げまして、発刊のお祝いと致します。
自序:国境を跨ぐ友誼-陳世憲
私は台湾の南部、台南は白河の片田舎に生を享けました。思わぬ巡り合わせから日本の九州、大分県は竹田市と深くかつ不思議な友誼を結ぶことになり、この友誼を元に自己の生命の表出として幾つもの書道作品を書いてきました。
あらゆる人間の生命は表現を必要とします。古代において原初の精神は長い醸成の過程を経て文字を作り出しました。それが即ち文学です。土を捏ねて焼いたものが陶磁器であり、顔料またはその他の色のついたペンで制作されるのが絵画、幻をリズムある旋律に変えたものが音楽です。そして書道とは文字と筆墨の結合と言えます。幾度も竹田を旅し友人たちとふれあう中で、この町がもつ南台湾とは異なった文化の香り、地理環境や町のイメージがだんだんと私なりに掴めてきました。互いに異なる生活習慣、異なる環境の中にあって、両地域で生活する人々の意識もやはり異なっていることを常々感じます。文字を書道芸術や文章に昇華させることを生業とする者にとって、これは一連なりの妙なる人生の旅です。そしてこれらの妙なる体験を、創意を凝らして一つ一つの作品に変じさせることにより、私の魂は国境の外へ続く出口を得、また竹田市の友人たちにも異国からの情誼を感じ取っていただくことができます。その情誼は、文字と筆墨の間に込められております。
日本列島の南に位置する九州。竹田市は九州の山あいの町です。台湾からはまず飛行機で福岡または熊本へ飛び、その後二時間から三時間ほど電車に揺られてやっと到着します。もし電車に乗って豊後竹田駅へ行けば、プラットホームに降りたあなたを地元のシンボルといえる歌曲「荒城の月」の歌声が迎えてくれるでしょう。驛舎は小さいながら風情に富んでいます。私の最も親しい友人である阿南ご夫妻のお住まいは駅の近くにあり、私がそこに泊めていただいているとき、電車が通るたびに踏切音の響きが聞こえてきます。数えてみれば過去竹田を訪れたのは十五回、今年十一月の展覧会で十六回目にもなります。今年六月に阿南先生の葬儀に参列したときはいつもの踏切の音がやけにかすれて聞こえ、脳裏に以前の情景が浮かび上がってきました。阿南先生が私を車に乗せてこの踏切を渡るたび、一時停止して左右を確認し、前を向き直して「通りますよ、皆さん気をつけて」とつぶやくのでした。今後は私が日本へ行ってももう阿南先生が運転する車に乗せていただくことはできません。先生は友誼の羽根をつけ、軽やかな煙と化して天上へ舞い上がられたか、あるいは空と一体になられたか。今は私がご自宅に置いてきた十数点の書道作品が阿南夫人のパートナーです。
この町に来て多くの方とよしみを結びました。ご自宅に泊めていただいたり、いつも色々とご厄介になっている大塚校長ご夫妻。大塚校長はこの地方で尊敬を集めている方です。以前私たちの歓迎会を玄関先で開いてくださったときは校長のご友人のほか近所の住人の方々も来られていて、校長はそれについて「うるさくして隣近所に迷惑をかけるといけませんから、近所の人たちにも庭で一緒にバーベキューを楽しんでもらうことにしたのです。私の親戚も何人か来ています」と言われました。また大塚夫人お手製の朝食は誠においしく見栄えもよく、感動させられました。
洪喜美彦先生ご夫妻は比較的お若く、洪先生は今年62歳、英語でのコミュニケーションにもさほど支障がありません。ご自宅には塵一つ落ちておらず、奥様の料理の腕も秀でています。
いつも精力旺盛な牧剛尓前市長、快活で明るい笑い声が印象的な古井議長、そして私にとって終始忘れえぬ人、茶人の池田先生。下駄を履いて茶室へ向かい、小さなにじり口から中に入り、正座をしてお茶を飲む本物の日本茶道を何度も体験させていただきました。書道家の草刈先生は名家のご出身で日々を誠実に生きられています。仕事部屋は四面がガラス張りになっていて畳の上でお茶を飲むと優雅な気分に浸れます。一見したところとりわけて変哲のない骨董品も、先生の慧眼と巧みなセンスの下にそのポテンシャリティが引き出され、空間に活力を持たせています。また吉弘央先生も鋭い審美眼をもった芸術品のコレクターで、打ち解けあったお付き合いをさせていただいています。この他にも竹田には偶然のきっかけで知り合った友人が大勢います。たとえば花水月温泉で一風呂浴びてからサンダルをつっかけて道端を歩いているとき、誰かに声をかけられてお辞儀を返したといった風に。
2015年5月には竹田創生館で書道の展覧会を開催しました。現職の首藤勝次市長も足を運ばれ、歓談する中で「2016年の11月にもう一度この武家屋敷〈創生館〉で展覧会を開きませんか。その時期竹田市では年に一度の重要なお祭り、竹楽が催されます。それに合わせてここで展覧会を開いていただきたいのです」と提案してくださり、私はその場でありがたくお誘いをお受けしました。
足かけ二十年にわたる竹田市との深い交誼の記録を整理していると、あの人、この人、あの出来事……など様々なシーンがドキュメンタリーフィルムを観ているかのように脳裏に浮かび上がってきます。
それで突然思い立ちました。もしかしたら自分は一冊の本が書けるのではないか。まるで自分の故郷のようなこの竹田での深い情誼を記録し、書道と文章で表現し、また友誼から湧いてくるイメージを筆墨によって表すことを通じて、この期間に経験し感じてきた事柄を外に向けて解き放とう、と。本書をもって過去の記録といたしますが、友誼は将来も発展を重ねていくに違いありません。
あらゆる人間の生命は表現を必要とします。古代において原初の精神は長い醸成の過程を経て文字を作り出しました。それが即ち文学です。土を捏ねて焼いたものが陶磁器であり、顔料またはその他の色のついたペンで制作されるのが絵画、幻をリズムある旋律に変えたものが音楽です。そして書道とは文字と筆墨の結合と言えます。幾度も竹田を旅し友人たちとふれあう中で、この町がもつ南台湾とは異なった文化の香り、地理環境や町のイメージがだんだんと私なりに掴めてきました。互いに異なる生活習慣、異なる環境の中にあって、両地域で生活する人々の意識もやはり異なっていることを常々感じます。文字を書道芸術や文章に昇華させることを生業とする者にとって、これは一連なりの妙なる人生の旅です。そしてこれらの妙なる体験を、創意を凝らして一つ一つの作品に変じさせることにより、私の魂は国境の外へ続く出口を得、また竹田市の友人たちにも異国からの情誼を感じ取っていただくことができます。その情誼は、文字と筆墨の間に込められております。
日本列島の南に位置する九州。竹田市は九州の山あいの町です。台湾からはまず飛行機で福岡または熊本へ飛び、その後二時間から三時間ほど電車に揺られてやっと到着します。もし電車に乗って豊後竹田駅へ行けば、プラットホームに降りたあなたを地元のシンボルといえる歌曲「荒城の月」の歌声が迎えてくれるでしょう。驛舎は小さいながら風情に富んでいます。私の最も親しい友人である阿南ご夫妻のお住まいは駅の近くにあり、私がそこに泊めていただいているとき、電車が通るたびに踏切音の響きが聞こえてきます。数えてみれば過去竹田を訪れたのは十五回、今年十一月の展覧会で十六回目にもなります。今年六月に阿南先生の葬儀に参列したときはいつもの踏切の音がやけにかすれて聞こえ、脳裏に以前の情景が浮かび上がってきました。阿南先生が私を車に乗せてこの踏切を渡るたび、一時停止して左右を確認し、前を向き直して「通りますよ、皆さん気をつけて」とつぶやくのでした。今後は私が日本へ行ってももう阿南先生が運転する車に乗せていただくことはできません。先生は友誼の羽根をつけ、軽やかな煙と化して天上へ舞い上がられたか、あるいは空と一体になられたか。今は私がご自宅に置いてきた十数点の書道作品が阿南夫人のパートナーです。
この町に来て多くの方とよしみを結びました。ご自宅に泊めていただいたり、いつも色々とご厄介になっている大塚校長ご夫妻。大塚校長はこの地方で尊敬を集めている方です。以前私たちの歓迎会を玄関先で開いてくださったときは校長のご友人のほか近所の住人の方々も来られていて、校長はそれについて「うるさくして隣近所に迷惑をかけるといけませんから、近所の人たちにも庭で一緒にバーベキューを楽しんでもらうことにしたのです。私の親戚も何人か来ています」と言われました。また大塚夫人お手製の朝食は誠においしく見栄えもよく、感動させられました。
洪喜美彦先生ご夫妻は比較的お若く、洪先生は今年62歳、英語でのコミュニケーションにもさほど支障がありません。ご自宅には塵一つ落ちておらず、奥様の料理の腕も秀でています。
いつも精力旺盛な牧剛尓前市長、快活で明るい笑い声が印象的な古井議長、そして私にとって終始忘れえぬ人、茶人の池田先生。下駄を履いて茶室へ向かい、小さなにじり口から中に入り、正座をしてお茶を飲む本物の日本茶道を何度も体験させていただきました。書道家の草刈先生は名家のご出身で日々を誠実に生きられています。仕事部屋は四面がガラス張りになっていて畳の上でお茶を飲むと優雅な気分に浸れます。一見したところとりわけて変哲のない骨董品も、先生の慧眼と巧みなセンスの下にそのポテンシャリティが引き出され、空間に活力を持たせています。また吉弘央先生も鋭い審美眼をもった芸術品のコレクターで、打ち解けあったお付き合いをさせていただいています。この他にも竹田には偶然のきっかけで知り合った友人が大勢います。たとえば花水月温泉で一風呂浴びてからサンダルをつっかけて道端を歩いているとき、誰かに声をかけられてお辞儀を返したといった風に。
2015年5月には竹田創生館で書道の展覧会を開催しました。現職の首藤勝次市長も足を運ばれ、歓談する中で「2016年の11月にもう一度この武家屋敷〈創生館〉で展覧会を開きませんか。その時期竹田市では年に一度の重要なお祭り、竹楽が催されます。それに合わせてここで展覧会を開いていただきたいのです」と提案してくださり、私はその場でありがたくお誘いをお受けしました。
足かけ二十年にわたる竹田市との深い交誼の記録を整理していると、あの人、この人、あの出来事……など様々なシーンがドキュメンタリーフィルムを観ているかのように脳裏に浮かび上がってきます。
それで突然思い立ちました。もしかしたら自分は一冊の本が書けるのではないか。まるで自分の故郷のようなこの竹田での深い情誼を記録し、書道と文章で表現し、また友誼から湧いてくるイメージを筆墨によって表すことを通じて、この期間に経験し感じてきた事柄を外に向けて解き放とう、と。本書をもって過去の記録といたしますが、友誼は将来も発展を重ねていくに違いありません。
01.鉄瓶とのご縁
友人が我が家に訪ねてこられ、私が鉄瓶で湯を沸かしているのを見ると、みな驚いた様子でこう言います。「鉄瓶で沸かした水はおいしいですか?飲めるのですか?銅とか鉄を食べるようなものではないですか?」。確かにひところはよくめまいを起こしており、しばらく休まないと元気が戻らなかったもので、果たして本当に身体にいいのかとか、車の運転は危険ではないかなどと気に病んでいました。また人と話をしているときに私の反応が鈍かったり失礼をしたりしたときも、日常的に鉄瓶で沸かした水を飲んでいるせいではないかと考えたりもしました。しかしある時期からめまいを起こすことはなくなり、身体の調子もすこぶる良くなってきました。ときには静座をして神経を鎮めたりもします。意識明晰で清々しい気分のときには自分の身体の状況もいくらかわかってくるものです。
故郷である台南・白河郷への帰郷を決めた当時、郷土に対する熱愛の情から白河の歴史文献を探り、また地元の名物である蓮華の美学を研究し、帰郷後は深く醸成された情感から湧き上がるインスピレーションを書や水墨画の創作に活かし、つつましい家でのどかに暮らすようになりました。白河の蓮華の名声は台湾中にとどろいており、台北の旅行者たちがしばしば観光バスに乗って見学に来られます。そんなとき私はよく彼らと連れ立って白河の風土、蓮の一生、名所旧蹟などを紹介しながら優雅な散歩を楽しみます。その中の一人に何良正氏という歯科医がおりました。私と彼とは竹門小学校のお手洗いで順番待ちをしている時に知り合って意気投合し、二日間さまざまな場所で語り合いました。彼が日本でホームステイをしながらたくさんの町を訪ね歩いた経験なども。その後何氏に誘われて、ものは試しとの思いから彼に同行して日本の郡山市へ行き、鈴木さんというご夫婦のお宅に泊めていただくことになりました。日本人のご私宅に六日間もお世話になることに、初めはずいぶん心配したものです。日本人の潔癖さと礼儀正しさは知られていますし、その上泊めていただく相手は今まで会ったこともない人です。ですが結果としては、幸いなことにいたって順調——いえむしろ「この上なく素敵な体験」と言えるものでした。
何医師から二度目の誘いを受けて向かった先は、九州は大分県の竹田市でした。福岡空港に降り立ち、三時間余りの移動を経て竹田市に到着。清らかな川、山を覆う楓、湯気の煙る温泉のある町です。
私のホームステイ先として割り振られたのは阿南先生ご夫妻のお宅でした。阿南先生は西洋文化が新たに開放された戦後初期の日本における最初の英語教育者であり、長年中学校で教鞭をとってこられました。日本人にとって巻き舌音などを含む英語の正確なアクセントを身につけるのは至難の業でしょうが、文章読解の方面はきっと長けているだろうと思います。歓迎の宴を開いていただいた夜、地元の楽団が演奏するこの町を代表する曲「荒城の月」を聴きました。人口二万人余りのこの町には「荒城の月」のムードが濃厚に立ちこめています。この歌の舞台である岡城は、源頼朝に追われた源義経をかくまうために地元の豪族緒方氏が築いたもの。息を切らしつつ遺址の上まで登り、川底から積み上げられている石垣や力強く根を張った松を眺め、八百年の歳月の流れを偲びました。「荒城の月」の作曲者である瀧廉太郎は竹田で暮らしていたこともあり、十七歳の頃から作曲を始め、二十三歳で夭逝するまでに五十から六十に上る曲を作りました。その多くは土地からインスピレーションを得ています。「花」「菊」「箱根八里」などは簡潔にして物寂しげな曲調、それでいて力強さを感じさせるメロディを特徴としており、ギターやピアノの初心者にとっては避けて通れない練習曲です。
竹田市の市民は地元と縁の深い作曲家・瀧廉太郎によって作曲された荒城の月を、この町の最も重要なシンボルとして位置づけています。なおこの歌の詞は仙台出身の詩人、土井晩翠によって書かれました。私たちが町の中のトンネルにさしかかると、入り口のセンサーが感応して「荒城の月」がスピーカーから流れ出しました。トンネル内に響き渡るメロディー。心細い暗闇の中で、私たちは歌声をよりどころとして歩みを続けていきました。光を失った世界の中では聴覚がきわめて鋭敏になり、幻想的なタイムトンネルの中で進むべき方向を指し示してくれます。トンネルを抜けた先は瀧廉太郎の記念館でした。入り口にある彼の若くみやびやかな精神の足跡を刻みつけたレリーフ、それは竹田の人々が瀧のために作ったものです。
阿南ご夫妻が用事のある時、私は一人で散策に出かけました。夕暮れどきに表通りを歩いていてふと目についた、電柱の上に高々と掲げられた看板。それは台湾の商業看板のようなでかでかとしたものではなく、中心に「荒城の月」と来訪者を歓迎する言葉が書かれ、下の方にごくつつましく菓子屋や花屋、米屋といった店舗の名前が書かれているのでした。似たような看板は町のあちこちで見られます。竹田の代表物を第一に示し、その上で個々の店舗を宣伝するこれらの看板が表しているのは、コミュニティの協同意識の強さです。商業看板が建物の壁全体を覆っていたり、路上に突き出していたり、看板をさえぎる街路樹が夜中にこっそり切り落とされたりする台湾の状況とはまるで異なっています。
日本の人々は書道家を丁重に扱ってくれます。私もずいぶん敬意のこもったおもてなしを受けました。初日の夜の歓迎会が終わり阿南先生のお宅に戻ってからもまた日本のビールをいただき、十二時過ぎに潰れるようにして布団に入り、翌朝七時まで眠りこけました。二日目の夜も大勢の人が阿南先生のお宅にいらっしゃって宴を開きましたが、そのために阿南先生の奥様は昼食後ずっと準備をしてくださっていたのでした。皆が英語と日本語、ジェスチャーを交えて意思を通じ合わせ、私も台湾のさまざまな物語を伝えました。飛び交う翻訳しきれない笑い話、たとえわかってもわからなくても笑顔こそが最上のおつまみです。この夜も十二時過ぎに倒れるようにして寝床に入り、翌朝やはり七時に起き、阿南ご夫妻に連れられて山に登り、汲み上げた泉の水で淹れたコーヒーをご馳走になりました。山を覆う楓はほのかに赤みがさし始めた頃で、「もうあと二、三週も過ぎると一段と美しい紅葉が見られますよ」と言う阿南先生に、私は「よい友人と共に眺める紅葉こそが最も美しいものです」と応えました。私たちがコーヒーを淹れたのは久住山という山です。ノーベル文学賞受賞者である川端康成に「千羽鶴」という小説があり、主人公は菊治という茶人です。川端はこの作品を執筆中、展開に行き詰まったときに久住山を旅し、湧き水を飲んでその甘美さに感銘を受け、おかげで小説の筋書きもひらめいたと言われています。その後地元の人がこの水を使って酒をつくるようになり、その酒を「千羽鶴」と名付けました。私も何度も賞味したことがあります。とりわけ書道のパフォーマンスに臨むときにこれを飲むと、文学にえがかれた竹田の情景に入り込んだかのような気分が湧いてきて、筆がすらすらと動き出すのです。
この日阿南先生のお宅に戻ったときにはもうすっかり眠く、お互いにあいさつを交わしてすぐ床に就きました。四日目の朝は五時過ぎに目が醒め、温度計を見ると十一度、二階のアンティークなベッドの上で暖かい布団にくるまりながら色々と考えを巡らせました。——この部屋にあるものはどれもかつてここにホームステイをした世界各国の友人たちからの贈り物で、三十数個を数える。さて人と人との友誼とは一体どういうものなのだろうか。私はもともと阿南先生と一面識もなく、何良正医師を通じてこうして泊めていただけることになったが、何医師自身も初めてここにホームステイしたときに初めて阿南先生と顔を合わせたのだ。この家は世界中の人に向けて開かれている。旅人はみな数泊して去っていく。その後便りをよこす人もいれば、音沙汰なしの人もいるだろう。どうであれ、阿南夫妻は絶えずさまざまな国からのお客さんを温かく迎え入れている……。
六時になると「荒城の月」を改編した鐘の音が町の中心部から四方に向けて鳴り響き、朝食の時間に阿南先生に鐘の音についてたずねると、次のように答えてくださいました。「竹田市の緯度は高くも低くもないので日照時間の変化もそう大きくはないのですが、季節を問わず市民により正確な時刻を知ってもらうため、住民たちが町の中心に鐘楼を設置し、朝の六時きっかりに〈荒城の月〉を編曲した鐘の音を流して一日の始まりを皆に告げ、午後六時にもう一度鐘の音を流して、家に帰って休む時間が来たことを皆に告げているのです」と。この言葉を聞いて私は大変感動を覚えました。この美感を備えたまちづくりのエピソードに対して。後日気がついたのですが、竹田駅で電車が到着・発進するときに旅行者や帰郷した地元民を出迎え、あるいは出立を見送るのもこの「荒城の月」なのです。故郷を離れて暮らす竹田の人々にとって、この歌はきっと自らの魂と故郷とを結ぶ強い綱なのでしょう。
そのほか、あるレストランでもドアを通り抜けた瞬間におなじみのメロディーが流れ出しました。実に町中に「荒城の月」が氾濫しています。この地を訪れた旅人は誰しも事あるごとにこの曲の情緒に浸ることができ、またこの地を離れてからもきっと折りにつけてその旋律が胸によみがえり、いつかまた竹田を旅したいと思うようになることでしょう。
後日、台東大学で夏期研修中の小学校教師一同を伴って竹田の小学校を参観したことがあります。校長を交えての座談会の進行中、ある人が校長に「荒城の月」の小学校教育における位置づけについて尋ねると、校長は次のように答えられました。
「音楽の授業で最初に習うのがこの歌です。歴史の授業では初めに岡城の歴史から教えます。国語の授業でも初めに荒城の月の歌詞の意味を説明します。そして遠足先の定番も岡城遺址です。四月には満開の桜が、十一月には紅葉が見られます。これはまた自然科学の授業の出発点でもあります。私たちの教育は地元の史跡に立脚しており、そこから各専門分野へと学習内容が派生していくようになっています。自分たちの暮らす土地についてより深く知ること、それが学習の核心です」
台湾彫刻界の大先達に黄土水という名の人がいます。黄氏は日本留学中に朝倉文夫先生の門下として指導を受けた人です。朝倉先生は竹田の人。小学校教師一同が牧市長への表敬訪問を終え、建物の入り口で記念写真を撮っている最中、一体の彫像が目に止まりました。もともと誰も注意を払わなかったのですが、私がここで彫像となっている朝倉先生はとても有名な彫刻家であることを皆に告げると、台東大学の陳光明教授が皆に「つい先週、彼についての宿題を出しませんでしたか?」と言い、この瞬間一同揃って「わあ!」と驚きの声を上げたものです。
阿南ご夫妻のお住まいは典型的な日本家屋です。畳の床、過度な装飾がなく落ち着いた屋内の様子、客間の床の間には私が彼らに贈った「苦集滅道」の書を掛けていただいています。日本の伝統家屋の客間において掛け物や生け花を飾ったりする床の間は最も重要な空間です。阿南先生宅の客間には炉もあり、中の五徳に鉄瓶が置かれておりました。取っ手は天井から吊り下げられた鉄鉤に引っ掛けられています。
お茶を好む私は鉄瓶がもつ健康上の効能も理解していました。四日目の午後、屋内でくつろいだ時間を過ごしている時、私は自分のひどい英語で阿南先生に「私もこのような古くて趣のある鉄瓶を買おうと思います」と言ったところ、先生は「この鉄瓶は妻のものですから、私が決めることはできません」と応えられました。「私は骨董品店でこのような古い鉄瓶を買うつもりなのです、この鉄瓶をいただこうと思っているわけではありません」と言ったのですが、先生はまたも「我が家のこの鉄瓶は妻のもので、妻は今外出しております」と言われるばかり。私は慌てて「私の英語がつたないせいで誤解させてしまい、あいすみません。私はこの鉄瓶をいただきたいのではなくて、外で似たものを探そうと思っているのです。台湾に持ち帰ってお茶を淹れるのに使えるものを。この点をはっきりお伝えできなかった以上、初めから言わなかったことにいたします。never mind!」と一気に言い、阿南先生はもう言葉を継がれませんでした。
五日目の朝、食卓に並べられた朝食は伝統的な和食で、また味噌汁、牛乳、コーヒー、煎茶など飲み物だけでも四種を数えました。ふとカーテンの方を見ると、なんとそこには既にしっかり包装された鉄瓶が。炉に視線を移すと鉄瓶の姿が見当たりません。あの包装された鉄瓶こそ阿南先生ご夫妻が長年使ってこられたものに違いありません。何も言えず、黙々と朝食をいただいていると、阿南先生が先に口を開かれました。
「昨夜、妻と午前二時まで話し合いました。あなたは文化を深く愛する、心の広い、すばらしい若者だと私たちは考えています。私たちの一人娘は結婚して旦那と子供と共に東京で暮らしています。娘は現代的な物を好み、日本の伝統文化にはそう大して興味をもっていません。台湾からいらっしゃったあなたが日本の文物をこのように愛され、すばらしい書をかかれることに私たちは感銘を受けています。我が家のこの鉄瓶は、妻の母親がまだ幼かったころから使われていて、少なくとも八十年の歴史があるものです。昔から我が家に置いてありました。初めの頃は日常的に使用していましたが、ある時期からはただの装飾品になってしまいました。あなたがこんなにも気に入られたのなら、この際あなたに差し上げましょう。この鉄瓶を以後あなたの台湾のご自宅に置いてもらえるなら、それには独特の意味があります。いつか遠い将来、あなたが七十歳余りになったとき、もしもまだこの鉄瓶が使用に耐え、もしあなたがお茶の文化を熱愛する若者と知り合ったなら、そのときにはこれをまたその若者に贈っていただきたいと思うのです」
阿南先生がこのようにお話になるのを聞いて、私は涙がこぼれ落ちるのを抑えきれず、しばらくのあいだ口を開くこともできずにおりました。
そうして今、この鉄瓶は私の家でよく熟成されたお茶を淹れるときに使っています。歳月が醸し出した趣きを色濃く漂わせているこの鉄瓶について、もし来客に尋ねられたら、私はこの鉄瓶にまつわる物語を初めから仕舞いまで語って聞かせます。それを聞いた客人は誰もが深い感動を覚え、私たちは鉄瓶で淹れたお茶を飲みながら、楽しく語らうのです。
故郷である台南・白河郷への帰郷を決めた当時、郷土に対する熱愛の情から白河の歴史文献を探り、また地元の名物である蓮華の美学を研究し、帰郷後は深く醸成された情感から湧き上がるインスピレーションを書や水墨画の創作に活かし、つつましい家でのどかに暮らすようになりました。白河の蓮華の名声は台湾中にとどろいており、台北の旅行者たちがしばしば観光バスに乗って見学に来られます。そんなとき私はよく彼らと連れ立って白河の風土、蓮の一生、名所旧蹟などを紹介しながら優雅な散歩を楽しみます。その中の一人に何良正氏という歯科医がおりました。私と彼とは竹門小学校のお手洗いで順番待ちをしている時に知り合って意気投合し、二日間さまざまな場所で語り合いました。彼が日本でホームステイをしながらたくさんの町を訪ね歩いた経験なども。その後何氏に誘われて、ものは試しとの思いから彼に同行して日本の郡山市へ行き、鈴木さんというご夫婦のお宅に泊めていただくことになりました。日本人のご私宅に六日間もお世話になることに、初めはずいぶん心配したものです。日本人の潔癖さと礼儀正しさは知られていますし、その上泊めていただく相手は今まで会ったこともない人です。ですが結果としては、幸いなことにいたって順調——いえむしろ「この上なく素敵な体験」と言えるものでした。
何医師から二度目の誘いを受けて向かった先は、九州は大分県の竹田市でした。福岡空港に降り立ち、三時間余りの移動を経て竹田市に到着。清らかな川、山を覆う楓、湯気の煙る温泉のある町です。
私のホームステイ先として割り振られたのは阿南先生ご夫妻のお宅でした。阿南先生は西洋文化が新たに開放された戦後初期の日本における最初の英語教育者であり、長年中学校で教鞭をとってこられました。日本人にとって巻き舌音などを含む英語の正確なアクセントを身につけるのは至難の業でしょうが、文章読解の方面はきっと長けているだろうと思います。歓迎の宴を開いていただいた夜、地元の楽団が演奏するこの町を代表する曲「荒城の月」を聴きました。人口二万人余りのこの町には「荒城の月」のムードが濃厚に立ちこめています。この歌の舞台である岡城は、源頼朝に追われた源義経をかくまうために地元の豪族緒方氏が築いたもの。息を切らしつつ遺址の上まで登り、川底から積み上げられている石垣や力強く根を張った松を眺め、八百年の歳月の流れを偲びました。「荒城の月」の作曲者である瀧廉太郎は竹田で暮らしていたこともあり、十七歳の頃から作曲を始め、二十三歳で夭逝するまでに五十から六十に上る曲を作りました。その多くは土地からインスピレーションを得ています。「花」「菊」「箱根八里」などは簡潔にして物寂しげな曲調、それでいて力強さを感じさせるメロディを特徴としており、ギターやピアノの初心者にとっては避けて通れない練習曲です。
竹田市の市民は地元と縁の深い作曲家・瀧廉太郎によって作曲された荒城の月を、この町の最も重要なシンボルとして位置づけています。なおこの歌の詞は仙台出身の詩人、土井晩翠によって書かれました。私たちが町の中のトンネルにさしかかると、入り口のセンサーが感応して「荒城の月」がスピーカーから流れ出しました。トンネル内に響き渡るメロディー。心細い暗闇の中で、私たちは歌声をよりどころとして歩みを続けていきました。光を失った世界の中では聴覚がきわめて鋭敏になり、幻想的なタイムトンネルの中で進むべき方向を指し示してくれます。トンネルを抜けた先は瀧廉太郎の記念館でした。入り口にある彼の若くみやびやかな精神の足跡を刻みつけたレリーフ、それは竹田の人々が瀧のために作ったものです。
阿南ご夫妻が用事のある時、私は一人で散策に出かけました。夕暮れどきに表通りを歩いていてふと目についた、電柱の上に高々と掲げられた看板。それは台湾の商業看板のようなでかでかとしたものではなく、中心に「荒城の月」と来訪者を歓迎する言葉が書かれ、下の方にごくつつましく菓子屋や花屋、米屋といった店舗の名前が書かれているのでした。似たような看板は町のあちこちで見られます。竹田の代表物を第一に示し、その上で個々の店舗を宣伝するこれらの看板が表しているのは、コミュニティの協同意識の強さです。商業看板が建物の壁全体を覆っていたり、路上に突き出していたり、看板をさえぎる街路樹が夜中にこっそり切り落とされたりする台湾の状況とはまるで異なっています。
日本の人々は書道家を丁重に扱ってくれます。私もずいぶん敬意のこもったおもてなしを受けました。初日の夜の歓迎会が終わり阿南先生のお宅に戻ってからもまた日本のビールをいただき、十二時過ぎに潰れるようにして布団に入り、翌朝七時まで眠りこけました。二日目の夜も大勢の人が阿南先生のお宅にいらっしゃって宴を開きましたが、そのために阿南先生の奥様は昼食後ずっと準備をしてくださっていたのでした。皆が英語と日本語、ジェスチャーを交えて意思を通じ合わせ、私も台湾のさまざまな物語を伝えました。飛び交う翻訳しきれない笑い話、たとえわかってもわからなくても笑顔こそが最上のおつまみです。この夜も十二時過ぎに倒れるようにして寝床に入り、翌朝やはり七時に起き、阿南ご夫妻に連れられて山に登り、汲み上げた泉の水で淹れたコーヒーをご馳走になりました。山を覆う楓はほのかに赤みがさし始めた頃で、「もうあと二、三週も過ぎると一段と美しい紅葉が見られますよ」と言う阿南先生に、私は「よい友人と共に眺める紅葉こそが最も美しいものです」と応えました。私たちがコーヒーを淹れたのは久住山という山です。ノーベル文学賞受賞者である川端康成に「千羽鶴」という小説があり、主人公は菊治という茶人です。川端はこの作品を執筆中、展開に行き詰まったときに久住山を旅し、湧き水を飲んでその甘美さに感銘を受け、おかげで小説の筋書きもひらめいたと言われています。その後地元の人がこの水を使って酒をつくるようになり、その酒を「千羽鶴」と名付けました。私も何度も賞味したことがあります。とりわけ書道のパフォーマンスに臨むときにこれを飲むと、文学にえがかれた竹田の情景に入り込んだかのような気分が湧いてきて、筆がすらすらと動き出すのです。
この日阿南先生のお宅に戻ったときにはもうすっかり眠く、お互いにあいさつを交わしてすぐ床に就きました。四日目の朝は五時過ぎに目が醒め、温度計を見ると十一度、二階のアンティークなベッドの上で暖かい布団にくるまりながら色々と考えを巡らせました。——この部屋にあるものはどれもかつてここにホームステイをした世界各国の友人たちからの贈り物で、三十数個を数える。さて人と人との友誼とは一体どういうものなのだろうか。私はもともと阿南先生と一面識もなく、何良正医師を通じてこうして泊めていただけることになったが、何医師自身も初めてここにホームステイしたときに初めて阿南先生と顔を合わせたのだ。この家は世界中の人に向けて開かれている。旅人はみな数泊して去っていく。その後便りをよこす人もいれば、音沙汰なしの人もいるだろう。どうであれ、阿南夫妻は絶えずさまざまな国からのお客さんを温かく迎え入れている……。
六時になると「荒城の月」を改編した鐘の音が町の中心部から四方に向けて鳴り響き、朝食の時間に阿南先生に鐘の音についてたずねると、次のように答えてくださいました。「竹田市の緯度は高くも低くもないので日照時間の変化もそう大きくはないのですが、季節を問わず市民により正確な時刻を知ってもらうため、住民たちが町の中心に鐘楼を設置し、朝の六時きっかりに〈荒城の月〉を編曲した鐘の音を流して一日の始まりを皆に告げ、午後六時にもう一度鐘の音を流して、家に帰って休む時間が来たことを皆に告げているのです」と。この言葉を聞いて私は大変感動を覚えました。この美感を備えたまちづくりのエピソードに対して。後日気がついたのですが、竹田駅で電車が到着・発進するときに旅行者や帰郷した地元民を出迎え、あるいは出立を見送るのもこの「荒城の月」なのです。故郷を離れて暮らす竹田の人々にとって、この歌はきっと自らの魂と故郷とを結ぶ強い綱なのでしょう。
そのほか、あるレストランでもドアを通り抜けた瞬間におなじみのメロディーが流れ出しました。実に町中に「荒城の月」が氾濫しています。この地を訪れた旅人は誰しも事あるごとにこの曲の情緒に浸ることができ、またこの地を離れてからもきっと折りにつけてその旋律が胸によみがえり、いつかまた竹田を旅したいと思うようになることでしょう。
後日、台東大学で夏期研修中の小学校教師一同を伴って竹田の小学校を参観したことがあります。校長を交えての座談会の進行中、ある人が校長に「荒城の月」の小学校教育における位置づけについて尋ねると、校長は次のように答えられました。
「音楽の授業で最初に習うのがこの歌です。歴史の授業では初めに岡城の歴史から教えます。国語の授業でも初めに荒城の月の歌詞の意味を説明します。そして遠足先の定番も岡城遺址です。四月には満開の桜が、十一月には紅葉が見られます。これはまた自然科学の授業の出発点でもあります。私たちの教育は地元の史跡に立脚しており、そこから各専門分野へと学習内容が派生していくようになっています。自分たちの暮らす土地についてより深く知ること、それが学習の核心です」
台湾彫刻界の大先達に黄土水という名の人がいます。黄氏は日本留学中に朝倉文夫先生の門下として指導を受けた人です。朝倉先生は竹田の人。小学校教師一同が牧市長への表敬訪問を終え、建物の入り口で記念写真を撮っている最中、一体の彫像が目に止まりました。もともと誰も注意を払わなかったのですが、私がここで彫像となっている朝倉先生はとても有名な彫刻家であることを皆に告げると、台東大学の陳光明教授が皆に「つい先週、彼についての宿題を出しませんでしたか?」と言い、この瞬間一同揃って「わあ!」と驚きの声を上げたものです。
阿南ご夫妻のお住まいは典型的な日本家屋です。畳の床、過度な装飾がなく落ち着いた屋内の様子、客間の床の間には私が彼らに贈った「苦集滅道」の書を掛けていただいています。日本の伝統家屋の客間において掛け物や生け花を飾ったりする床の間は最も重要な空間です。阿南先生宅の客間には炉もあり、中の五徳に鉄瓶が置かれておりました。取っ手は天井から吊り下げられた鉄鉤に引っ掛けられています。
お茶を好む私は鉄瓶がもつ健康上の効能も理解していました。四日目の午後、屋内でくつろいだ時間を過ごしている時、私は自分のひどい英語で阿南先生に「私もこのような古くて趣のある鉄瓶を買おうと思います」と言ったところ、先生は「この鉄瓶は妻のものですから、私が決めることはできません」と応えられました。「私は骨董品店でこのような古い鉄瓶を買うつもりなのです、この鉄瓶をいただこうと思っているわけではありません」と言ったのですが、先生はまたも「我が家のこの鉄瓶は妻のもので、妻は今外出しております」と言われるばかり。私は慌てて「私の英語がつたないせいで誤解させてしまい、あいすみません。私はこの鉄瓶をいただきたいのではなくて、外で似たものを探そうと思っているのです。台湾に持ち帰ってお茶を淹れるのに使えるものを。この点をはっきりお伝えできなかった以上、初めから言わなかったことにいたします。never mind!」と一気に言い、阿南先生はもう言葉を継がれませんでした。
五日目の朝、食卓に並べられた朝食は伝統的な和食で、また味噌汁、牛乳、コーヒー、煎茶など飲み物だけでも四種を数えました。ふとカーテンの方を見ると、なんとそこには既にしっかり包装された鉄瓶が。炉に視線を移すと鉄瓶の姿が見当たりません。あの包装された鉄瓶こそ阿南先生ご夫妻が長年使ってこられたものに違いありません。何も言えず、黙々と朝食をいただいていると、阿南先生が先に口を開かれました。
「昨夜、妻と午前二時まで話し合いました。あなたは文化を深く愛する、心の広い、すばらしい若者だと私たちは考えています。私たちの一人娘は結婚して旦那と子供と共に東京で暮らしています。娘は現代的な物を好み、日本の伝統文化にはそう大して興味をもっていません。台湾からいらっしゃったあなたが日本の文物をこのように愛され、すばらしい書をかかれることに私たちは感銘を受けています。我が家のこの鉄瓶は、妻の母親がまだ幼かったころから使われていて、少なくとも八十年の歴史があるものです。昔から我が家に置いてありました。初めの頃は日常的に使用していましたが、ある時期からはただの装飾品になってしまいました。あなたがこんなにも気に入られたのなら、この際あなたに差し上げましょう。この鉄瓶を以後あなたの台湾のご自宅に置いてもらえるなら、それには独特の意味があります。いつか遠い将来、あなたが七十歳余りになったとき、もしもまだこの鉄瓶が使用に耐え、もしあなたがお茶の文化を熱愛する若者と知り合ったなら、そのときにはこれをまたその若者に贈っていただきたいと思うのです」
阿南先生がこのようにお話になるのを聞いて、私は涙がこぼれ落ちるのを抑えきれず、しばらくのあいだ口を開くこともできずにおりました。
そうして今、この鉄瓶は私の家でよく熟成されたお茶を淹れるときに使っています。歳月が醸し出した趣きを色濃く漂わせているこの鉄瓶について、もし来客に尋ねられたら、私はこの鉄瓶にまつわる物語を初めから仕舞いまで語って聞かせます。それを聞いた客人は誰もが深い感動を覚え、私たちは鉄瓶で淹れたお茶を飲みながら、楽しく語らうのです。
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荒城の月は竹田出身の作曲家、瀧廉太郎が白虎隊のエピソードをイメージして作曲した歌です。竹田は瀧の出身地であることから、瀧が作った歌が町のイメージソングとなっています。また岡城遺址の頂には瀧の銅像が立っています。
現在二つの大きなプロジェクトを同時に進めています。一つは台湾のための書道。台湾のさまざまな地名を、それぞれの地域の物語を取り入れて書いていくことで、字に特色を持たせています。もう一つは世界のための書道。本見出しの竹田は日本の町の名ですが、台湾の屏東県にも竹田という地域があります。おそらくは日本の影響を受けて命名されたものでしょう。九州の竹田市の字を揮毫するにあたってはその土地の特色を内に取り入れ、屏東竹田郷の字を揮毫する上でも同様ですから、二つの作品は字こそ同じでも必然的に異なる様相を帯びることになります。ここ九州の竹田には竹が多く自生し、毎年十一月二十日前後の週末には竹田の一大イベント「竹楽(ちくらく)」が開催され、夜になると無数の竹灯籠が古民家を照らし出す幻想的な情景が見られます。
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02. 2015年5月 竹田創生館での書道展「線的意象」
今日の午後竹田創生館で書道のパフォーマンスを行うにあたり、大塚校長はどんな魔法を使ったものか、実に大勢の地域住民の方々を呼び集めてきてくださいました。スペースが足りなくなりそうだったため会場である武家屋敷のふすまを取り外し、庭園に面した二つの部屋をつなげました。そして背の低い和風のテーブルを運び込み、その上に書道家の黒野華伸先生が持ってきてくださった大きな紺の布を敷くと、私もがぜんやる気が出てまいりました。
三十分ほど前まで清酒「千羽鶴」を買い求めようと町中を歩き回ったのですがついに見つけられませんでした。そのことを知った大塚校長の奥様はすぐ、目下こちらに向かっている洪喜美彦先生に電話をかけられ、洪先生のおかげで十分後には二本の千羽鶴を手にすることができました。
私はまず、最も親しい台湾語の教師である李安和先生が以前教えてくださった「淡江北望」という詩を画仙紙にしたためました。
雙山把鎮淡江潯 (双山は淡水河畔の鎮を護り)
岬海青屏自古今 (岬 海 峰々は古来変わらず)
一望大屯紗帽嶺 (大屯山 紗帽嶺を一望す)
雲連關渡臥觀音 (雲は関渡に連なり観音横臥す)
一番柔らかい羊毫筆でゆっくり書き進め、書き終えてから台湾語で詠み上げました。私の予想以上に皆さんに気に入っていただけたようです。「這杯千羽鶴喝完,就是竹田人了」(この一杯の千羽鶴を飲み干して、竹田の人になる)。落款として小さくこの一句を付け加えました。
開始時間が近づくにつれ来訪者の数もますます増え、自然早めに適当な場所を見つけて座っていただきました。
全員が座るのを待って私は黒野先生からいただいた画仙紙を開き、面識のある妙齢の女性にお手伝いいただいてテーブルに固定すると、千羽鶴を手に取ってやはり洪先生が準備してくださった美しい磁器の酒杯に注ぎました。私がいったい何をしようとしているのか、皆さん興味深そうに見つめておられます。
全員の視線が集まる中、私はまず一杯目を飲み干し、続けて二杯目を口にしてこう言いました。
「竹田に来るのはこれが十三回目です。私にとってこの町は、台湾を除いて最も思い入れの深い町です。この一杯を飲み干したら、私は竹田の人間になります!」
文燦氏がこれを通訳すると、嵐のような拍手が鳴り響きました。
川端康成が茶人を主人公とした小説『千羽鶴』を書き上げて後、竹田の蔵元が川端を訪ね、何か字を書いてもらえないか頼みました。川端は毛筆で「千羽鶴」と書きそれを贈ったといいます。ここ久住山に湧く名水でつくられた清酒はこうして「千羽鶴」と命名され、小説との相乗効果もあって大きな評判を呼ぶことになりました。
パフォーマンスで次に書くことになった字は「喫茶去」です。リクエストされた黒野先生にその理由を尋ねますと、
「お茶は仲のよい者同士の付き合いをより愉快なものにし、見知らぬ者同士でも共に茶を飲み合いさえすれば互いにいい印象が生ま
れます。喫茶は人と人とを結びつける大切な営みでありますから」とのお答えをいただきました。
二枚目を書き出す前に、先の作品から多少気持ちを切り替えなければなりません。そこでお集まりの皆さんに「荒城の月」を合唱していただくようお願いし、二杯目の千羽鶴を飲み干したところで筆を取りました。「喫茶去」の字はシンプルな逆筆で書き進め、三つの字の全ての画が他の画とつながり合うようにしました。あたかも人の心と心の結びつきのように。字を書き上げ、落款を押したところで紙にはまだ大きな余白が残っていました。通常ならナイフでカットしてしまいますが、今回は余白をそのままにして最下部に「喝茶不要忘記我…」(お茶を飲むとき、私のことを忘れないで)と書き添えました。
文燦氏がこの一言を訳すと皆が大声で笑い、拍手も沸き起こりました。
書のパフォーマンスで、観客とここまで熱く盛り上がったのは誠にこれが初めてです。
私は書道を行うときいつも、背景となるイメージをはっきり形づくることにしています。そこで考えました。この書の墨は比較的渇いた色をしているので、あたかも老人茶(よく熟成した烏龍茶をじっくり時間をかけて飲むたしなみ方)のよう。次も同様に「喫茶去」と書きましたが、こちらは若者の事を談じながらお茶を飲んでいるイメージです。
持ってきたDVDはラジカセでは再生できなかったので、文燦氏に頼んで皆さんに瀧廉太郎の「花」を歌ってもらえないかどうか聞いてもらいますと、答えるが早く誰かが歌い始め、他の人々も合わせて歌い出しました。竹田の人々の心意気が私にも乗り移るのを感じ、皆さんが歌い終わったところで兼毫筆をとり、筆の先を湿らせた後ごく少量の墨をつけて書き出しました。筆致は軽妙なリズムを呈し、筆跡は淡く、最後の一筆を思いきり長く伸ばして、どこかへ行きたくなったらすぐさま出立するような若者の熱い青春を表出しました。
今朝は小雨が降っていて、この武家屋敷のひさしから雨垂れがぽたぽた滴っていました。それは私が過去に観たことのある数多くの古い日本映画のシーンとそっくりで、その上なんと今の自分はこのお屋敷の一週間限りの主なのです! 夢か幻かそれとも現実か、昂ぶった心には区別がつかなくなりそうでした。
場の空気はますます盛り上がってきました。私が皆さんに向かって「どなたか、長い間書いてみたいと思いながら機会がなく今に至るまで書いていない言葉をお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と聞きますと、九十歳になられるという最年長の紳士が「放下」という字を書きたいと仰いました。先と同様にその理由を尋ねますと、「年をとればとるほどお迎えの日が近づいてきます。どんな出来事も恐れることなく受け入れられる心を学びたいのです」とのお言葉でした。
私は目を閉じ、手さぐりで大きめの純羊毫筆を取り上げ、目をつむったまま硯に筆をやって適当な量の墨をつけ、画仙紙の位置の見当をつけて「放下」と書き、そこで目を開きました。
字は二つともいささか傾いておりました。目を開けたとき、皆さんが発する「へえ〜」という声が耳に響きました。私は「ハハハ!」と笑い、「何もかも手放したんです。今さら傾いているとかいないとか気にする必要がありましょうか」と申しました。
こうして書道のパフォーマンスは終わりました。大塚校長はずっと笑っておられ、大塚校長夫人も「Good」と言ってくださいました。この日のパフォーマンスは、過去のどのパフォーマンスにも増して面白いものでした!
2015年5月22日 竹田展覧会の終わりに
古井議長ご夫妻、阿南夫人、大塚校長夫人、吉弘央氏、洪喜美彦先生ご夫妻が豊後竹田駅まで見送りに来てくださいました。誠に感激の至りです。最後に小坂氏が地元の湧き水でつくられた焼酎「清明」を手に駆けつけて来られ、一同改札を抜け、プラットホームから待機中の電車に乗り込みました。三、四人が座席に座り、他の人は立ったまま話を続け、洪夫人は私の手荷物を空いている座席のすき間に置きました。「他の乗客にとって迷惑ではありませんか?」と言いますと、奥様は「そんなに人は乗って来ませんから大丈夫ですよ、この小さな町も少子化と人口流出の問題をかかえているんです」と言われました。
電車の発車時刻は9時45分、42分ごろ「荒城の月」の歌声がプラットホームにこだまし、電車はゆっくりと動き出しました。皆さんが手を振る姿と私の出立を見送る眼差しはいつも変わりません。おのずと涙がこぼれてきました。訪問の度に友誼は一段と緊密さを増していきます。
私が台湾で竹田の友人たちのことを懐かしく思うとき、よくパソコンを開いてユーチューブで「荒城の月」を聴いたり、或いはカラオケに行ってこの歌を唄ったりしています。
三十分ほど前まで清酒「千羽鶴」を買い求めようと町中を歩き回ったのですがついに見つけられませんでした。そのことを知った大塚校長の奥様はすぐ、目下こちらに向かっている洪喜美彦先生に電話をかけられ、洪先生のおかげで十分後には二本の千羽鶴を手にすることができました。
私はまず、最も親しい台湾語の教師である李安和先生が以前教えてくださった「淡江北望」という詩を画仙紙にしたためました。
雙山把鎮淡江潯 (双山は淡水河畔の鎮を護り)
岬海青屏自古今 (岬 海 峰々は古来変わらず)
一望大屯紗帽嶺 (大屯山 紗帽嶺を一望す)
雲連關渡臥觀音 (雲は関渡に連なり観音横臥す)
一番柔らかい羊毫筆でゆっくり書き進め、書き終えてから台湾語で詠み上げました。私の予想以上に皆さんに気に入っていただけたようです。「這杯千羽鶴喝完,就是竹田人了」(この一杯の千羽鶴を飲み干して、竹田の人になる)。落款として小さくこの一句を付け加えました。
開始時間が近づくにつれ来訪者の数もますます増え、自然早めに適当な場所を見つけて座っていただきました。
全員が座るのを待って私は黒野先生からいただいた画仙紙を開き、面識のある妙齢の女性にお手伝いいただいてテーブルに固定すると、千羽鶴を手に取ってやはり洪先生が準備してくださった美しい磁器の酒杯に注ぎました。私がいったい何をしようとしているのか、皆さん興味深そうに見つめておられます。
全員の視線が集まる中、私はまず一杯目を飲み干し、続けて二杯目を口にしてこう言いました。
「竹田に来るのはこれが十三回目です。私にとってこの町は、台湾を除いて最も思い入れの深い町です。この一杯を飲み干したら、私は竹田の人間になります!」
文燦氏がこれを通訳すると、嵐のような拍手が鳴り響きました。
川端康成が茶人を主人公とした小説『千羽鶴』を書き上げて後、竹田の蔵元が川端を訪ね、何か字を書いてもらえないか頼みました。川端は毛筆で「千羽鶴」と書きそれを贈ったといいます。ここ久住山に湧く名水でつくられた清酒はこうして「千羽鶴」と命名され、小説との相乗効果もあって大きな評判を呼ぶことになりました。
パフォーマンスで次に書くことになった字は「喫茶去」です。リクエストされた黒野先生にその理由を尋ねますと、
「お茶は仲のよい者同士の付き合いをより愉快なものにし、見知らぬ者同士でも共に茶を飲み合いさえすれば互いにいい印象が生ま
れます。喫茶は人と人とを結びつける大切な営みでありますから」とのお答えをいただきました。
二枚目を書き出す前に、先の作品から多少気持ちを切り替えなければなりません。そこでお集まりの皆さんに「荒城の月」を合唱していただくようお願いし、二杯目の千羽鶴を飲み干したところで筆を取りました。「喫茶去」の字はシンプルな逆筆で書き進め、三つの字の全ての画が他の画とつながり合うようにしました。あたかも人の心と心の結びつきのように。字を書き上げ、落款を押したところで紙にはまだ大きな余白が残っていました。通常ならナイフでカットしてしまいますが、今回は余白をそのままにして最下部に「喝茶不要忘記我…」(お茶を飲むとき、私のことを忘れないで)と書き添えました。
文燦氏がこの一言を訳すと皆が大声で笑い、拍手も沸き起こりました。
書のパフォーマンスで、観客とここまで熱く盛り上がったのは誠にこれが初めてです。
私は書道を行うときいつも、背景となるイメージをはっきり形づくることにしています。そこで考えました。この書の墨は比較的渇いた色をしているので、あたかも老人茶(よく熟成した烏龍茶をじっくり時間をかけて飲むたしなみ方)のよう。次も同様に「喫茶去」と書きましたが、こちらは若者の事を談じながらお茶を飲んでいるイメージです。
持ってきたDVDはラジカセでは再生できなかったので、文燦氏に頼んで皆さんに瀧廉太郎の「花」を歌ってもらえないかどうか聞いてもらいますと、答えるが早く誰かが歌い始め、他の人々も合わせて歌い出しました。竹田の人々の心意気が私にも乗り移るのを感じ、皆さんが歌い終わったところで兼毫筆をとり、筆の先を湿らせた後ごく少量の墨をつけて書き出しました。筆致は軽妙なリズムを呈し、筆跡は淡く、最後の一筆を思いきり長く伸ばして、どこかへ行きたくなったらすぐさま出立するような若者の熱い青春を表出しました。
今朝は小雨が降っていて、この武家屋敷のひさしから雨垂れがぽたぽた滴っていました。それは私が過去に観たことのある数多くの古い日本映画のシーンとそっくりで、その上なんと今の自分はこのお屋敷の一週間限りの主なのです! 夢か幻かそれとも現実か、昂ぶった心には区別がつかなくなりそうでした。
場の空気はますます盛り上がってきました。私が皆さんに向かって「どなたか、長い間書いてみたいと思いながら機会がなく今に至るまで書いていない言葉をお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と聞きますと、九十歳になられるという最年長の紳士が「放下」という字を書きたいと仰いました。先と同様にその理由を尋ねますと、「年をとればとるほどお迎えの日が近づいてきます。どんな出来事も恐れることなく受け入れられる心を学びたいのです」とのお言葉でした。
私は目を閉じ、手さぐりで大きめの純羊毫筆を取り上げ、目をつむったまま硯に筆をやって適当な量の墨をつけ、画仙紙の位置の見当をつけて「放下」と書き、そこで目を開きました。
字は二つともいささか傾いておりました。目を開けたとき、皆さんが発する「へえ〜」という声が耳に響きました。私は「ハハハ!」と笑い、「何もかも手放したんです。今さら傾いているとかいないとか気にする必要がありましょうか」と申しました。
こうして書道のパフォーマンスは終わりました。大塚校長はずっと笑っておられ、大塚校長夫人も「Good」と言ってくださいました。この日のパフォーマンスは、過去のどのパフォーマンスにも増して面白いものでした!
2015年5月22日 竹田展覧会の終わりに
古井議長ご夫妻、阿南夫人、大塚校長夫人、吉弘央氏、洪喜美彦先生ご夫妻が豊後竹田駅まで見送りに来てくださいました。誠に感激の至りです。最後に小坂氏が地元の湧き水でつくられた焼酎「清明」を手に駆けつけて来られ、一同改札を抜け、プラットホームから待機中の電車に乗り込みました。三、四人が座席に座り、他の人は立ったまま話を続け、洪夫人は私の手荷物を空いている座席のすき間に置きました。「他の乗客にとって迷惑ではありませんか?」と言いますと、奥様は「そんなに人は乗って来ませんから大丈夫ですよ、この小さな町も少子化と人口流出の問題をかかえているんです」と言われました。
電車の発車時刻は9時45分、42分ごろ「荒城の月」の歌声がプラットホームにこだまし、電車はゆっくりと動き出しました。皆さんが手を振る姿と私の出立を見送る眼差しはいつも変わりません。おのずと涙がこぼれてきました。訪問の度に友誼は一段と緊密さを増していきます。
私が台湾で竹田の友人たちのことを懐かしく思うとき、よくパソコンを開いてユーチューブで「荒城の月」を聴いたり、或いはカラオケに行ってこの歌を唄ったりしています。
この武家屋敷は門前の土塀を見れば明らかなように伝統的な工法に基づいて建てられています。三、四百年の歴史ある町並みに位置し、現在は展示スペースとして利用されています。十八年前、私が初めて竹田を訪れたとき、いつかきっとここで書道の展覧会を開きたいと心に決めました。それから長い年月が流れ、十四回目の来訪でようやく宿願が果たせました。天に感謝です。
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作品を竹田まで運ぶにあたって、大塚校長ご夫妻をはじめと心を配られ、たびたび昼食を用意してくださいました。また阿南夫人の依頼を受けて茶人の池田先生がお茶を淹れに来てくださいました。その水は大塚校長がわざわざ汲んでこられた湧き水です。阿南先生の生前最後の数年間は病状がたびたび悪化し入退院を繰り返しておられましたが、この時期は比較的安定していて、展覧会にも足を運ばれ、何度もうなずきながら「Good!」と口になさいました。
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ここが入り口です。引き戸にポスターを貼りました。屋内の低いテーブルには芳名帳が置いてあります。日本へ来るようになってから気がついたのですが、日本の作法においてこのような展覧会への参観者が名前を書き残すことは大きな意義を持っています。それは来訪者を記録する大切な印なのです。その上芳名帳には名前のほかに住所と電話番号も書くことになっています。
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展覧会をご参観にいらっしゃった首藤市長。川端康成のご子息と親しく、川端康成関連の資料を数多く収蔵しておられる文化人であり、文化市長です。共に楽しく語らいました。たびたび日本を訪れている方なら察しがつくことでしょうが、日本の文化をめぐる思考や議論には一定の深さがあり、一地方であるこの竹田での文化の建設ぶりも私から見て真実で虚偽のないものです。
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【摘桂花泡茶】(モクセイを摘んで茶を淹れる)と【光】この二点の作品は障子の前に掛けました。徐々に明るさを増していく朝の陽光が障子紙を通してこの掛け軸を照らすと、墨の濃淡がよりはっきりと見分けられるようになります。光がこれらの作品のエネルギーを引き出したと言えるでしょう。
こちらの紫の服をお召しになったご婦人も参観者の一人です。私たちのご案内の下、一時間あまりゆっくりご鑑賞になり、お帰りになるときは満面の微笑みを私たちに向けてくださいました。それから二日後となる展覧会最後の一日、閉館時間が近づきそろそろ片付けに取りかかろうかと思った矢先、突然風呂敷包みをたずさえたご婦人が姿を見せ、芳名帳が置いてある低いテーブルの前に腰かけられました。洪喜美彦先生が私をそこへ呼び、こう言われました。「こちらのご婦人は先日ここへ来られたとき、陳さんの色彩豊かで濃淡のはっきりした作品を観て大きな感動を覚えたそうです。帰宅されてから陳さんにどのように感謝を伝えようか二日も考えてやっと思いつき、今朝早起きして陳さんのために桜のゼリーを作られたんだそうです」
風呂敷の中には二つの箱に詰められた桜ゼリーがありました。ご婦人は落ち着いた仕草で蓋を開け、私にゼリーを手渡してくださいました。さっそくいただいたところ、酸味の中にほのかな甘味が溶け込んだすばらしい味でした。「この桜ゼリーの味は、あなたの作品を拝見したときの私の気持ちを表しています」とそのご婦人は言われました。 |
摘桂花泡茶」の作品は何人かの友人の目に止まり、のちミニトマトを温室栽培されている太田修道氏に収蔵していただくことになりました。農家の方がこんなにも私の作品を気に入ってくださり大変光栄に思います。
初めて竹田を訪れたとき、阿南先生に連れられて岡城に登りました。山の上に巨大な岩を高々と積み上げて築かれた石垣、昔の合戦の際はこの上から指揮を執ったのでしょう。地元の作曲家・瀧廉太郎はこの城をイメージして「荒城の月」を作曲しました。簡潔で悲哀を帯びた旋律のこの曲は今までに数十の言語に翻訳あるいは歌詞を変えて歌い継がれ、また小学校の音楽の教科書にも掲載されています。竹田には町中に荒城の月の旋律が溢れていますので私も深い印象を受けました。あるときは電車に乗り込んで今まさに竹田を離れようとしているさなかに荒城の月の歌声が流れ出し、その瞬間その場は舞台の中のせつない別れの駅に変わり、哀感に胸を締めつけられたものです。
台湾に戻ってからある日友人と行ったカラオケ屋で、友人はなんと荒城の月の台湾語版を選曲しました。そしてその翻訳者はなんと台南市在住の作曲家、呉晋淮先生でした。そこで私は呉先生が訳された歌詞の全体を手に入れ、それを毛筆で二枚揮毫しました。うち一枚は前竹田市長の牧剛尓氏にお贈りし、もう一枚は手元に取っておいて、私が初めて出した本『非草草了事』にも載せました。 |
飛舞-
台湾南部、西子湾の海辺では黄昏時になると赤、橙、黄の三色の夕陽が、ときに混ざり合い、ときに分かれて海を照らします。そこに海風が吹けば、波の舞い踊る様子も見られます。 |
喧囂之外-
赤、黄、緑、青の色をつけた四本の筆をまとめて持って書きました。けたたましい騒音と美しい景色を前にして、イヤホンで耳を塞ぎながら一心に鮮やかな風景を楽しんでいる様子を表しています |
大塚校長には五人のお孫様がいらっしゃいます。新たにお孫様が誕生される度に校長はその子のために掛け軸を買い、私がそこにお名前を揮毫させていただいています。文字とは簡潔な記号です。この揮毫には生まれてきた子供がこれから人の文化を理解していくという意味と、よい智慧を生み出せるようにとの願いが込められています。五人のお孫様のうち、今のところ私がお目にかかったことがあるのは三人です。
有由有緣-
昨年五月に竹田創生館で展覧会を開いた折、現職の首藤市長が参観にいらっしゃり、市長が序文をお書きになった本『川端康成の眼』を私に下さいました。その中に川端康成が揮毫した「有由有緣」という書が載っています。人と人はそれぞれの由来と因縁があって初めて相まみえるものとお考えの市長は、私にもこの四文字を書いてほしいと言われました。私は心境を醸成するのに少し時間が必要なので数日間待っていただきたいと応え、四日目に二本の筆を使ってこの作品を書き上げました。片方の筆は私、もう片方の筆は首藤市長であり、二人がここでめぐり合わせたご縁を表しています。 |
點滴穿石-
「滴」の字のさんずいは水を表します。「點」の字の四つの点は元来火を表すものですが、この作品は水をイメージしていますので同様に水の表象としました。ここでの「滴」のさんずいはまた水滴を受け止め、水の流れていく方向も表しています。さらに「穿」の四つの点も水です。大きなしずくが滴り落ちていく様子が本作品のコンセプトとなっています。一番下には石があります。 |
03. 阿南福登先生の御霊に捧げる言葉
敬愛する阿南福登先生:
10日前に張文燦氏から電話をいただき、阿南先生が既に食事も摂れず、栄養注射によりかろうじて体力を保っておられる状態にある事をうかがった時、私は心の底から、可能な限り早く日本へ飛んで最期に一目でも先生にまみえたいと強く願い、ただちに高雄から九州への航空券を予約しました。しかし私が竹田に向かう当日の朝、先生のご訃報に接し、人生最大といえるほどの悲しみに打ちひしがれました。奥様はいつも子供のような笑顔を私に向けてくださっており、私は自分の話す英語がすべて通じているものと思い込んでいました。——後になってわかりましたが、実は私の英語はまったく奥様に通じていなかったのです。ですが奥様は常に微笑みを絶やすことがありませんでした。その表情は、奥様が言葉の溝をすっかり乗り越えていることを表していました。それで私は気づきました。人の情というものは国境も、言葉の溝も、文化の差異も乗り越えうるものなのだと。
その後、私が結婚式を挙げることになったとき、阿南先生の奥様は台湾の白河まではるばるいらしてくださいました。私も頻繁に竹田を訪れるようになり、今回でもう15回目になります。ある時は大塚校長のご自宅に、またある時は洪喜美彦先生のご自宅にご厄介になりましたが、大方は阿南先生のご自宅に泊めていただき、その度に私は、言葉も文化も異なる日本と台湾の間で、かくも分け隔てなく、損得勘定抜きで面倒を見てくださる竹田の方々の心の広さに、深く感じ入りました。それはあたかも私が先生のお宅の障子に毛筆で書かせていただいた言葉「無生、無死、無鐵壺、無煩惱、無私」のように。無鐵壺とは、阿南先生が愛用されていた鉄瓶を私に授けてくださり、今は私が高雄の自宅でお茶を淹れるのに使っていることに由来します。阿南先生は私にこう言われました。「いつか陳さんが老人になったとき、この鉄瓶をまた文化を愛する若者にあげてやってください。その若者に受け継がせていってください」と。無煩悩といえば、当然ながら今の先生は煩いからも悩みからも自由になられました。……すみません、わかっています、私の弔辞は少しばかりユーモアを含んでいます。私はただ、もしも人の魂がこのようにユーモアを持っているなら、死への恐れがいくらかでもやわらぐのでは、と願っているのに過ぎません。14回にわたるホームステイを経て、竹田はすでに私の日本における故郷になりました。中でも阿南先生のお宅は最も多くの思い出がある場所です。この長い年月の間に私は生命の大きさを体感し、パリやリヨン、ブダペスト、東京や福岡で書の展覧会を開き、昨年は竹田創生館でも展覧会を開かせていただき、そのさい私の台湾書道や、書道の世界が国境に縛られないことなどについても語る機会を得、これら一連の過程において、世界の至る所で様々な人間の生が交錯しあう妙をしみじみと感じました。台湾にいるときはしばしば大学や読書会、サークルなどに招かれて講演をする機会があります。そのさい私は度々パワーポイントを操作しながら、阿南先生のご自宅で過ごした日々や竹田のすばらしさに言及しています。或いはテレビ局の取材を受ける時も、私はよくテレビカメラに向かって、日本の友人である阿南先生の大らかなお人柄について紹介しています。昨夜私は奥様から、今晩は阿南先生のご遺体の隣で眠るようにと言われました(これは台湾にはない習慣です。ご遺体と一緒に寝ることになるとは予想だにしていませんでした)。台湾の文化において、阿南先生のように心の大らかな方は、死後神様となって、生前親しかった人々の健康や仕事の成功を加護するものとされています。竹田市が有する豊かな歴史や優雅な文化、音楽を介した人々の結びつき等は、世界中の人が知る価値のあるものです。そして神様になられた阿南先生の恩恵の下、国籍の隔てなく全ての人が楽観的かつ勇敢に、それぞれの人生を前進させていけるものと信じております。
台湾 陳世憲
10日前に張文燦氏から電話をいただき、阿南先生が既に食事も摂れず、栄養注射によりかろうじて体力を保っておられる状態にある事をうかがった時、私は心の底から、可能な限り早く日本へ飛んで最期に一目でも先生にまみえたいと強く願い、ただちに高雄から九州への航空券を予約しました。しかし私が竹田に向かう当日の朝、先生のご訃報に接し、人生最大といえるほどの悲しみに打ちひしがれました。奥様はいつも子供のような笑顔を私に向けてくださっており、私は自分の話す英語がすべて通じているものと思い込んでいました。——後になってわかりましたが、実は私の英語はまったく奥様に通じていなかったのです。ですが奥様は常に微笑みを絶やすことがありませんでした。その表情は、奥様が言葉の溝をすっかり乗り越えていることを表していました。それで私は気づきました。人の情というものは国境も、言葉の溝も、文化の差異も乗り越えうるものなのだと。
その後、私が結婚式を挙げることになったとき、阿南先生の奥様は台湾の白河まではるばるいらしてくださいました。私も頻繁に竹田を訪れるようになり、今回でもう15回目になります。ある時は大塚校長のご自宅に、またある時は洪喜美彦先生のご自宅にご厄介になりましたが、大方は阿南先生のご自宅に泊めていただき、その度に私は、言葉も文化も異なる日本と台湾の間で、かくも分け隔てなく、損得勘定抜きで面倒を見てくださる竹田の方々の心の広さに、深く感じ入りました。それはあたかも私が先生のお宅の障子に毛筆で書かせていただいた言葉「無生、無死、無鐵壺、無煩惱、無私」のように。無鐵壺とは、阿南先生が愛用されていた鉄瓶を私に授けてくださり、今は私が高雄の自宅でお茶を淹れるのに使っていることに由来します。阿南先生は私にこう言われました。「いつか陳さんが老人になったとき、この鉄瓶をまた文化を愛する若者にあげてやってください。その若者に受け継がせていってください」と。無煩悩といえば、当然ながら今の先生は煩いからも悩みからも自由になられました。……すみません、わかっています、私の弔辞は少しばかりユーモアを含んでいます。私はただ、もしも人の魂がこのようにユーモアを持っているなら、死への恐れがいくらかでもやわらぐのでは、と願っているのに過ぎません。14回にわたるホームステイを経て、竹田はすでに私の日本における故郷になりました。中でも阿南先生のお宅は最も多くの思い出がある場所です。この長い年月の間に私は生命の大きさを体感し、パリやリヨン、ブダペスト、東京や福岡で書の展覧会を開き、昨年は竹田創生館でも展覧会を開かせていただき、そのさい私の台湾書道や、書道の世界が国境に縛られないことなどについても語る機会を得、これら一連の過程において、世界の至る所で様々な人間の生が交錯しあう妙をしみじみと感じました。台湾にいるときはしばしば大学や読書会、サークルなどに招かれて講演をする機会があります。そのさい私は度々パワーポイントを操作しながら、阿南先生のご自宅で過ごした日々や竹田のすばらしさに言及しています。或いはテレビ局の取材を受ける時も、私はよくテレビカメラに向かって、日本の友人である阿南先生の大らかなお人柄について紹介しています。昨夜私は奥様から、今晩は阿南先生のご遺体の隣で眠るようにと言われました(これは台湾にはない習慣です。ご遺体と一緒に寝ることになるとは予想だにしていませんでした)。台湾の文化において、阿南先生のように心の大らかな方は、死後神様となって、生前親しかった人々の健康や仕事の成功を加護するものとされています。竹田市が有する豊かな歴史や優雅な文化、音楽を介した人々の結びつき等は、世界中の人が知る価値のあるものです。そして神様になられた阿南先生の恩恵の下、国籍の隔てなく全ての人が楽観的かつ勇敢に、それぞれの人生を前進させていけるものと信じております。
台湾 陳世憲